沖に流されてから

虚構織り交ぜています

遠回りだからいえること、抽象的にする事

昨夏、ヴェネチア・ビエンナーレの報告会に行った。
田中功起さんと蔵屋美香さんが座る会場には、300人程が集まっていたと思う。知った顔もちらほらいた。

 

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引用元:http://www.parasophia.jp/events/a/koki-tanaka-mika-kuraya/

 

予定時間を過ぎた二時間半越えの報告会では、田中さんがビエンナーレ出品作家に選出されるまでの経緯・作品について・日本館をどう構築したか、を順序だてて説明してくれた。けれどもビエンナーレを観に行った11月下旬には、私たちは聞いた話の大半を忘れてしまっていた。
下の内容はお二人の言葉のままではなく、私がとったメモなので、ご本人の見解ではない。

 

 

■作品のメディウムについて

ビデオは記録に適したメディウムである。

ビデオというメディウムが普及した現在では、作品においてビデオの形式性は背景・裏方にまわった。その場で起きたことを自分がどのように見て、捉えたのかが作品となる 。同じ出来事を表すにしても、写真、文字、録音、映像、によってそれぞれの見え方があり、出来ごとの経験の差だけではなく、その記録の経験の差もある 。記録する方法は、必ずしもビデオでなくてもいいが、より即物的に試すことが出来るのでビデオを使って作品をつくっている。 youtube、展覧会、映画館、みる場所によっても違いがでる。映像全編を見る人は少ないので、以前の映像作品では、 一直線のリニア(そのまま、時系列に編集すること?)ではなくパラレルな時間の捉え方をした。瞬間的にわかるものにしたり、映像がループする作品をつくっていた。分かりやすいタイムラインに編集する必要性がある。
※田中さんの「Each and Every」 と、ヴィト・アコンチ「Digging Piece」 を観る、とのメモあり

 

Each and Every from Koki Tanaka on Vimeo.

引用元:http://vimeo.com/35412097

 

 

■過剰なサービスをやめる事がサービス

生まれて間もない子どものように、自分達が先入観をもつ前の状態、既知の感覚を確認する行為によって、 日常をアートにする。 何か見つけたこと・気づいたことを作品にする。「これって面白いでしょう」って気持ちを削った方がより伝わり、サービスとなる 。田中さんの初期の作品は、物が転がったり落ちたりする日常をシンプルに捉え、その動作に付随する音がするだけ。一切の説明がないから「訳がわからない」と評される。あらゆるテレビ番組でセリフにテロップまでつく、過剰ともいえるサービスに慣れた私たちにとって、田中さんの作品はかなり刺激的。何気なく見過ごす日常に改めて目を向け、ありのままに見せてくれる。例えば、駅の階段上り下りする時、必ず左足から踏み出すとか、必ず9の倍数で上り終えると気分がいいとか。そういう、くだらな過ぎて馬鹿にされそうな、日常の密やかな心のより所を暴かれたような心持ちになる作品がある。

 

「自己表現は自己満足であって、アートではない。」という意の発言もあった。僕の内面・心情を表現しています、という作品よりも、今目の前にある事象を、僕はこういうふうに切り取り再編集しました、というように、提示の仕方にオリジナリティがある作品のほうが面白そう。視覚的に美しいものだと尚更観たい。

 

 

■概念の有無

「誰かのガラクタは、誰かの宝もの」(映像作品)は、道端で拾ったヤシの葉をフリーマーケットで売ろうとしたもの。

”僕はきっとそのとき「もの」を売っていたのではなく、そこに生じるコミュニケーション、あるいはそのアイデアやストーリーそのものを売っていたのかもしれません”

 と田中さんは言っていた。

このくだりで、概念を取り入れ表面以上の意味を持たせているかどうか、そこがイラストレーターと画家の違いかもしれない、との発言もあった。

 

■共同に含まれる「醜さ」

共同することには、ある意味「醜さ」が出てくる。

中国で撮影された五人の陶芸家の映像では、共同作陶が上手く進まず、各々の陶芸に対するスタンスの違いが顕になる。ほんの少しの違いであっても、自分が良いと思うものをつくるか、又は人に良いと思われるか(大衆に受け入れられるもの?)において次第に対立してしまう。 五人が「芸術とは何か」を話はじめるようになり、陶芸とは?自分がやってきた芸術とは?というしんどい問題に近づいてしまう。

 

東日本震災を受け、人がどう共同するか、が日本館のテーマになった。「共同」と聞くと一見美しい行為のように思えるが、交渉と妥協が生まれることによっての醜さがある。 コラボレーションにも、交渉と妥協の両方が含まれる(その醜さこそが人間そのものなので、一回転して美しい事ではあるのだけれど)。

 

 

■日常性から社会や人間のあり方を考える

一時的にあつまった人達が何かー不安定なタスクーをやるビデオ を見て、何か足りないと思った。震災における当事者性、場所・時間の距離感(グラデーション)が作品のヒントになるのではと感じた。福島の経験はベネチアの人にとっては遠い事であり、当事者性はない。また、震災直後とは違う言及の仕方で未来の人にも伝わるように「共同(における失敗)」を抽象化した。

 

日本人といえば、今は明確なキーワードとして震災がでてくるかもしれない。けれどあの震災だけが問題ではなく、また日本だけの問題ではない。

 

”僕たちが捉えたリアリティを、関わりのない人と共有するには抽象性が有効なのでは”

と考えたそうだ。震災に関する具体的なものを扱うと、「かわいそう」といった感想で終わってしまうだろうが、抽象化する事によって、各々が自分の問題として読み込むことが出来る。抽象の隙間に自分の問題を反映できる。震災を入口にしなくても伝わる事がある。曖昧であることによって、やっと「外側」の人たちと共有できる場を得られた。

 

ビエンナーレでは、共同における失敗への考察が評価され、受賞につながった。

審査員は30~40代で、ディレクションをしたジオーニも30代と若い。賞には明確な基準「拡張している現状をオリジナルな視点で捉えていること」があったそうだ。

 

 

 

一通り話が終わり、質疑応答に移ったとき、初老の男性が質問した。

「なぜ、震災の様子をわかりやすく伝えないのか、今こそ大和魂を伝えるべく頑張らねばならない云々・・・」と、朗々とした口調で述べる様子に、みんな気圧されると同時に、今日の話の中で語られた「抽象性」は一体どこにいってしまったの?と思っていたはず。

この時行われた田中さんと男性のやりとりによって、この報告回のキーワードが「抽象性」であった事が印象づけられた。遠回りをして伝えることの効果を面白く感じ、有用な方法だと感じる人は、彼の映像作品の抽象性の隙間に、自分自身の問題を反映する。共同作業の困難さを見る。

質問したおじいさんは、震災というトピックを直接的に見せて、共同作業が行われている日本は素晴らしいぞ!という事を国外に向けて発信して欲しかったのかな。あの作品の趣旨、共同作業の失敗という部分からして共感していなかったのだろうな。

 

 

どのトピックについて語られていた時の言葉だったか、「集団の中での役割と自分本来の姿がわからなくなる」というコメントは今の自分にも置き換えられる話だった。

後は クレア・ビショップの論文「関係性の美学」を読んでみること。