沖に流されてから

虚構織り交ぜています

「皆表現せねば生きていられないのだ」

一人で暮らしていくのは非常に寂しい。賑やかなテレビを消し、夜も更けた頃、しんしんと冷えるワンルームはとても静かだ。こんな日は、インターネットのある時代に生まれてよかったと、いつにもまして思える。

好みの文章を書く人たちの、各々のページを回遊する。選ぶ言葉だけで、顔も性別も生い立ちも知らない人を好きになれる。(寧ろ人と対峙するときには、持って生まれた外見や所属は、勘定に入れないようになりたい)お気に入りの書籍が同じだと知り、少し満足して、ぼんやりと寂しさを紛らわして寝る。良い文章だけを求めるのなら本で十分だけど、今同じ時間に、どこかの喫茶店で、道で、すれ違う可能性のある人たちの言葉であることが、ちょっとロマンチックじゃないか。

 

 

数年に一度、感受性の器がいっぱいいっぱいになる時期がやってくる。どんな小さな事柄にも心が揺らぎ、他人から受けた様々な親切に泣く。センター試験が終わり、絵を描くしかなくなった頃がちょうどそのタイミングだった。講評で褒められては目を赤くし、画塾に行く日は、泣いてしまわないように堪える癖がついた。

 

それを見て、「そういう時期はあるのよ。いつもは空のコップに、いっぱいに水が入ってしまっているのよね。少し水滴が落ちただけで、表面張力が崩れちゃうみたいに、涙がでてくる。悲しいわけじゃないのにね。」と言ったのは、岡本先生だったように思う。

 

近頃はそんなふうに、コップがいっぱいになってしまう事がない。

とはいえ、会社で、電車で、道端で、急に泣いてしまうと私が困るので、胸がいっぱいになってしまわないほうが都合がいい。高校生の頃にみた、昼下がりの裏道で声をあげて泣くOLには、どんな事情があったんだろう。

アパートの部屋に入って安心したら、脈絡もなく、にやにやしたり歌ったり、泣いてみたりする人はきっと沢山いる。

 

週に一度、日記を書いて、二度、5キロを走ると決めた。一昨年の夏に、「あなたの書く文章が好きだから、続けてね」と言ってくれた先輩の日記は消えていた。