沖に流されてから

虚構織り交ぜています

ロシュフォールの恋人たち

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映画.comより)

 ジャック・ドゥミの「ロシュフォールの恋人たち」を観た。

挿入曲のひとつ「キャラバンの到着」がとても好きだったので借りてみたら、やっぱり素敵だった。同じくミシェル・ルグランが音楽を担当していた「シェルブールの雨傘」の叙情性溢れる曲調にくらべて、「ロシュフォールの恋人たち」はお気楽で軽快な雰囲気。♪運命の恋人はどこかしら~、恋しちゃったから仕事なんてポイしちゃうよ~、といったノリで、登場するのは恋に生きる喜びを謳歌している人ばかりだった。後先かんがえる質では真似できない生き方だけど、あんなにのびのびと生活できたらきっとストレスフリーだろう。

 踊りを披露するキャラバンが出てくることもあってか、劇中にはダンスシーンも多かった。印象的だったのは、全く振り付けの止めが揃わない(動きにキレがない?)自由な踊り方。アメリカのミュージカル映画を観ると、立ち位置や腕や足の角度をぴたっと揃えているように思うのだけど、フランスはこんな奔放な踊り方でいいんだ・・・、と戸惑った。観ているうちに、「コーラスライン」の中で、元主役級のダンサーが若手に混じってオーディションを受けに来るシーンを思い出した。ラインダンスを数名で試しに踊ったら、「君だけ脚があがりすぎている(能力が高いからあがってしまう)」と指摘される。脚をあげる高さをそろえてこその美しいラインダンスなんだなあ、と思っていたので劇中のゆるいダンスは新鮮だった。

 

 主役であるデルフィーヌとソランジュは、実際に姉妹なので顔も似ていた。姉のフランソワーズ・ドルレアックは25歳で事故死していて、生きていたら妹のカトリーヌ・ドヌーヴ同様、女優として活躍していたのかな。アメリカ人役でジーン・ケリーが出演していたのが面白かった。ジーン・ケリー演じるアンディがソランジュに「下着が見えていますよ(ワンピースの裾から下のレースが見える)」と指摘するシーンがあった。だけど劇中踊っている女性は皆、総じて翻ったスカートの中が見え隠れしているのだから、今更変な指摘じゃないか。時々でてくるレオタードにマントをつけた女性の衣装も変だな、とかツッコミどころはありながら、スカートの裾の翻る様子が軽やかで、ダンスシーンはずっと華やかに見えた。 とくに姉妹の衣装のカラーリングが毎シーン可愛くて、衣装担当はさぞ楽しく仕事をしたのだろう。衣装にもジャック・ドゥミ監督の意向が多分に反映されているみたいで、脚本といい美術といい、女性的なセンスをもった人だと思う。

 

 

 視覚聴覚で直接認識できる、出演者、挿入曲、衣装について印象に残った部分を挙げることはできても、音響効果や撮影技法の工夫に気付く事ができない。観た瞬間に、あ、変わってるなと思っていても、後からどんな演出だったか具体的に思い出せない事が多い。優れた演出によって作り手が意図した効果自体は感じていても、一体どの演出(カメラワークや画面の色調、編集など)によってその効果が生まれているのか、もっと理解しながら観ることが出来たら楽しくなるはず。

 

わらび餅

宝泉のわらび餅は本わらび粉を使っているので市販のものとは大違い。舌触りはしゃりしゃりとしながら、もっちりとした食感。珍しいものを食べたら長生きするよ、という大きいおばあさんの口癖(直接聞いた記憶はない)を思いだした。

 

もう季節は秋だったけど、供する器が涼やかで素敵だった。お茶うけのしぼり豆(黒豆の菓子)を噛みながら、今年の「七味五悦三会」にランクインするなと考えていた。

(500日)のサマー

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映画.comより)

 「(500日)のサマー」を観た。 トム役ジョセフ・ゴードン=レヴィットは「インセプション」のアーサー サマー役ズーイー・デシャネルは「ハプニング」のアルマ 両者ともキャラクターが全然違うので後半まで気がつかなかった。 トムは決定的な出会い、いわゆる運命の恋人の存在を信じているのに対して、サマーは愛情なんて明日にでも変わるかもしれないのだから、彼氏をつくる気はないという(大体同じ主旨)。最終的に、その互いの恋愛に対する考え方が逆転することに救われたような気になった。

 「テイク・ディス・ワルツ」と「ブルー・バレンタイン」も今観るにはちょうどいい内容だった。先の事はわからず、心が移ってしまう事に対して自責の念を抱いたところでどうしようもない。通い慣れた道の風景や人間関係、習慣に対する喪失感は、進学や転居による環境の変化にも似ているかもしれない。高校はよかったとか大学はよかったとか、そういう人がいるように、思い入れがつよい出来事が多いほど、色んな喪失感を得ていくのかな。 上記2本主演のミシェル・ウリィアムズが、最終的にハッピーになる映画を観たことがない。どちらも夫から心が離れていく妻の役で、「ブロークバック・マウンテン」では、夫が彼と戸口でこそこそと抱き合う様子を目にしてから離婚に至るまでの表情が印象に残っている。

 「(500日)のサマー」はサンディエゴ映画批評家協会から編集賞を受賞していた。トムの500日間を行きつ戻りつしながら、映し出される心の変化はテンポがよくて飽きなかった。編集賞ってどうやって判断されるんだろう、と思って検索すると、知恵袋に同じ質問が(アカデミー編集賞について)。大規模な映画になればなるほど分業でなければ作れないけど、監督に編集の全権が与えられている訳ではない事がある、というのは意外だった。編集によって、映画全編を通してのイメージを大きく変える事もできるから、あまりに監督の意向と異なった編集になった場合はクレジットを変更する事もあるらしい。ズーイー・デシャネルの瞳が綺麗な青だから、劇中のサマーの衣装には青を沢山とりいれたらしい。本当に青色がよく似合っていた。

提示する方法を選ぶのは難しい

5月にテープ起こしをしたインタビューの中で、YKBX(こと横部正樹さん)を知った(こういうクリエイターや芸能人について、呼び捨てにするのも「さん」付けで書くのも変な感じ)。今月の18日までgallery PARCで展示している。amazarashiのMVやネゴトのキャラクターデザインのテイストは好みじゃないけど、「プロダクトの裏に世界観やビジュアルの意味があるものを作っていければ」というインタビューがすきだった。ギャラリーがあるのはGRAND MARBLEの2階だから市内にでる14日~16日にいくといいかな。堂島ビエンナーレは16日か18日に。こう暑くなければもっと出かけたい。暑いとだるくて本当にだめだ。
 
 
こないだ同じギャラリーでケイコさん達とみた、吉原 啓太さんの個展「squash domain」について、実際に観た展示内容より後から読んだプレスリリースのほうが興味をそそった。カーボン紙を巻きつけた大きな白塗りの箱が、何人かのクリエイターの住居空間に運ばれる。この行為が”個々の領域(domain)への浸食(squash)”であることは展示から感じられた。その後各々に作ってもらったという作品からは、異物が生活空間の中に入ってきて感じた個々のありかたや、それ以外の何かをみることができなかった。わかることが良い、とは思わないけど面白い不可解さ(自分なりに解釈したくなるもの?)と、なんにもわかんないよ(見当違いに思えるもの?)という感想の間には違いがある。それがどう違うのか肌で感じているようなものだけど。正直私にはよくわからなかった。
面白く感じたことや興味をもっていることを、提示する方法を選択するのは難しい。映像がいいのか立体がいいのか、インスタレーションがいいのか。それ以外にも沢山とりえる材料や表現があって、「何故この選択か」を何度も考え、文脈やロジックを鍛えた人が、世界観を提示することができる。先生はダミアン・ハーストをその例に挙げていた。アイデアを形にし、計画をたてて進め、仕上げもきっちり完成させる賢さはビジネスマンに近いと思う。蝶の羽をステンドグラスの様にはりつけた「Superstition」は視覚的にも美しいので好き。文章で作品の概要を読む以上の感覚を与えてくれること(綺麗だけど、このパーツ全てが亡骸でできていることの薄ら寒さ)。蝶の羽でこそ意味があって、素材の美しさを存分に活かしている。森美術館の「LOVE展」では、異なるバージョンの作品をみた。同じYBAs(ヤング・ブリテッシュ・アーティスト)のトレイシー・エミンのネオンも出ていた。

ラースと、その彼女

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映画.comより)

ラースと、その彼女」を観た。
町の人からMr.サンシャインと呼ばれるほど心優しい、内気な弟が、兄夫婦に「彼女ができたんだ」と紹介したのは人間でなくラブドールでした、という話。脚本が面白そうだと思って借りた。けれどライアン・ゴスリングの演技を見たことに一番満足した。「ブルーバレンタイン」でも、結婚当初からの時間の経過をあらわすため、格好よく鍛えた体もたるませ、毛髪も抜いていた。見るたび全然違う役だ。
 
「ラースと…」では心を病んだ主人公を、周りの人たちは温かく受け入れてあげる。人形のビアンカ(彼女)に、洋服屋のショウウィンドウでの仕事を与え、ボランティアの場も与えたりする。舞台が田舎の町であること、ラースが元々皆に愛される優しい青年であったこと、兄夫婦の協力、があってこそだとは思うんだけど、どうにも優しすぎるコミュニティが出来すぎていて、感情移入できなかったなあ。人形が意思を持って動き出す「空気人形」の方がファンタジー色が濃いはずなのに、登場人物のドライさが私にとって、より現実的だった。映画は創作物だし、その虚構性を楽しみながらも心の機微にはリアリティを求めてしまう。元々この映画を借りた時には、ラースと社会のミスコミュニケーションの問題を主題においているのかな?と思っていただけに描かれていた人間愛にはピンとこなかった。ラースのキャラクターには嫌なところがひとつもなく、後半顕になってくるマーゴへのピュアな気持ちも素敵。周囲の優しさも全く押し付けがましくなく、気持ちよく見ることができた。私の人生経験が乏しいから、まだこの映画に出てくる人たちの温かさを理解できないのかもしれない。今はどちらかというと「空気人形」で板尾創路たちの演じた人の生々しい部分のほうが好きだ。
 
ラースがビアンカに抱いた関係性の幻想は、人間と人形、機械の間だけに起こるものではなくて人間同士の関係にあっても同じ「理想の他者」への欲求がある。「ルビー・スパークス」では、主人公カルヴィンの思い描く女性「ルビー」との決別が話の筋だった。ラースもカルヴィンも弟で、その弟を心配して見守る兄がいる、って設定が同じ。
 
 

途中、ラースがビアンカに語りかける「It's scientifically proven that everyone's favorite word is their own name so if you just say their name a lot you can see it's gonna make them happy」という台詞、 細かく訳すと、「人間が一番好きな言葉は自分の名前だという事は科学的に証明されているから、誰かの名前をいっぱい呼んであげるとその人を嬉しい気持ちにできるんだよ」 だそう。ちゃんと相手の名前を呼ぶって大事なのね

エディット・ピアフ讃

音楽理論を知っていれば、マイナースケールにして、この旋律をいれると物悲しくなるよ、などと言えるだろうが私はいつもわかってない。旋回するメロディーが切なく心地よいので、最近よく聴くプーランクの「15の即興曲 15 エディット・ピアフ讃」
 
リストを再生していたら、ピアフの歌に合わせて、ひたすらおじいちゃんが指揮する様子を映した動画が混ざっていた。おそらく自分自身で撮っているのだろう。自己顕示の形はいろいろだな。
自己受容しながら、承認欲求を上手く扱いたい。