沖に流されてから

虚構織り交ぜています

対幻想を諦めたら楽になったけど

異なる人間が一緒に暮らすのだから、皿の洗い方ひとつとってもズレが生じてくる。4年ほど前に同居を始めてから、幾度となく生活の仕方や方針、価値観の違いをすり合わせ、互いに変えられない部分は折り合いをつけてやってきた。

 

大の大人なのだから最低限自分のことは自分でできるし、互いの歩み寄りによってなんとか心地いい暮らしを作ることができていた。長い付き合いの中で食の好みも把握して、仕事帰りに相手が好きそうなつまみや菓子を買って帰ることが、ささやかな幸せだった。

 

しかし子供が生まれてからは、そうもいかなくなってきた。生まれたばかりの赤子は、四六時中誰かが世話をしてやらねばならない。「自分の生活のペースを変えたくない」なんてスタンスでは、子育ては立ち行かないのだ。

 

今でも出産直後~数か月は、母親がメインの育児者にならざるを得ない家庭がほとんどだろう。実際うちでも夫が外で稼いでくれたおかげで、生活費を賄えていた。だからこそ、母親が育児や家事を多く担うのは致し方ないし、当然なのだろうと自分自身を納得させていた部分もある。

 

でも本当は、”一緒に”子供を育ててほしかった。寄り添ってほしかった。

毎晩続く夜泣きによる慢性的な寝不足、うまくいかない授乳、発育の心配。疲労やイライラは少しずつ溜まっていく。うまくおむつを着けてやれずに、夜中におしっこが漏れてベッドシーツから掛布団まで、まるごとはがして洗濯したこともあった。これでまた寝る時間が少なくなるー。

 

その辛さや大変さは、体験してみないと想像できないだろう。想像できないとはいえ、目の前でくたくたになっている妻を心配する気持ちが欲しかった。自分たちの意思でわざわざ夫婦になったのだから、大変な時はお互いに支えあいたかった。家族以外の友人知人とは異なる、特別な対でいたかった。

外で仕事をするストレスだってわかっているし、かつこちらが想像しきれないこともあるだろう。でも、親になったのは私だけではない。あなたも親になったんだよ。

 

1日1日、ほんの少し期待をしては失望し、寄り添う気持ちが欲しいのだと訴えてみても言葉が届かず、その繰り返しの中でついには関係を構築し続けることに疲れてしまった。気持ちをすり減らし愛情も薄れ、まるで祟り神のように憎しみや怒りに囚われてしまったせいで、夫なりの優しさに素直に目を向けられなくなっていた。

こんなありふれたすれ違いが、昔から何年も何年も繰り返されているのだろうな、と思いつつも、だからと言って辛さが和らぐわけでもない。

 

私が過剰に、私たち夫婦に対して対幻想を抱きすぎていたのだろう。ようやくそれに気づけたおかげで、怒りに振り回されることがなくなってきた。諦めからくる穏やかで、少し寂しい平穏だ。

 

対幻想を持てない夫婦っていったい何なんだろう。なんて味気ないんだろう。別れずに生活を続けていくのは子供を育てるため、それからやっぱりどこかで諦めがついていないんだろう。時間が互いの溝を埋めはせずとも、結婚当初とは形の異なる温かい関係をつくってくれるのではないか、と期待してしまっている。能動的にはもう動けないけれど。1人相撲はもうたくさんだ。